真田一族の中でも特に有名・人気の高い三人の武将をまとめて「真田三代」といった名称で呼ぶファンも多くいます。

このページでは、真田三代について解説していきます。

真田三代は「幸隆・昌幸・幸村」

恐らく歴史の話題で「真田」というワードを耳にした時に、最も多くの人が想像するのが「真田幸村」なのではないでしょうか?

もちろん、幸村も真田三代の一人に含まれています。

残りは「幸隆」と「昌幸」という幸村の父と祖父の二人となります。

幸村と比べると知名度は少し低くなりますが、真田一族の中では大きな活躍をした事で知られています。

真田幸隆

真田幸隆は、現在の上田市真田地区の豪族でしたが、武田・村上軍に敗れた事で領地を失う事になります。

その後、武田信玄の家臣となり、めきめきと頭角を現していき「武田二十四将」に数えられる大きな活躍をします。

武田軍では、信濃先方衆として軍役の大役を務め、「砥石城乗っ取り」の功績により、旧領地を取り戻しています。

真田昌幸

真田昌幸は、幸隆の三男として生まれ育ちます。

父と同じく武田信玄の側近として活躍した戦国武将で、二人の兄(信綱・昌輝)が長篠の戦いで戦死した事により、真田家を継ぐ事になりました。

武田家が滅亡した後に自立を果たし、一時は織田信長の軍門に下り、滝川一益の与力となりましたが、本能寺の変の後に再び自立をしています。

領地の近い北条・徳川・上杉といった有名戦国武将との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵される事となります。

昌幸の有名なエピソードとしては、徳川軍を二度撃退した「上田合戦」が有名です。

歴史の教科書にも登場する「関ヶ原の戦い」では、西軍として活躍しています。

現在では、大河ドラマ・小説・談義等、様々な創作物に知将として登場している事から、名前や活躍を耳にした事もある人も多いと思います。

真田幸村

真田一族の中で最も高い人気・知名度を誇るのが「真田幸村」です。

昌幸の次男として生まれ、第二次上田合戦の後に昌幸と一緒に紀州・九度山に流されるといった経験をしています。

「大坂夏の陣」では、赤備えの軍団を率いて父親を彷彿とさせる戦略を用いて徳川軍を大いに苦しめています。

 

徳川軍の本陣まで到達するといった活躍を果たした事から、後に「日本一の兵」と評される等、国民的人気を集める事となりました。

真田幸村は本名ではない

現在は、真田幸村の名前で知られていますが、実は幸村ではなく「信繁」が正しい名前となります。

実際に、直筆の書状等で「幸村」という名前が使われた形跡がありません。

幸村の名前が登場するのは、大坂夏の陣以降で、大坂入り後の書状でも「信繁」の名前が用いられています。

しかし、真田家に多い「幸」の漢字が使用されている事、さらに信繁よりも幸村という名前が一般に浸透した事から、現在では「幸村」という名前が使われるようになりました。