第35回上田真田まつり 平成29年(2017年) 4月29日(土・祝日)

真田三代

真田三代

幸隆、昌幸、そして幸村   今も人々を惹き付ける真田一族の生き様

武田信玄の家臣として活躍した真田幸隆。徳川の大軍を二度にわたって上田城で打ち破った真田昌幸。

そして大坂夏の陣で徳川家康を追い詰めた真田信繁(幸村)。

その活躍ぶりは参戦した武将たちにより記録が残されました。

後世に、その史実を基に講談や小説が創作され、戦国時代の英雄として広く知られるようになりました。

また、幸村の家来として「真田十勇士」が生み出され、今日でも小説、映画、マンガ、ゲームなど様々な作品で取り上げられ、幸村とともに人気を博しています 。

真田三代の系譜

六文銭の血統

真田 幸隆(さなだ ゆきたか)(1513~1574)

真田氏中興の祖。一時、真田の地を追われたが、「砥石城乗っ取り」の功績で再び旧領を取り戻す。武田信玄のもとで活躍し武田二十四将にも数えられる。武田軍の先方衆として信濃、上野方面の戦いで手腕をふるった。

真田 昌幸(さなだ まさゆき)(1547~1611)

幸隆の三男。武田信玄の側近として仕え、兄(信綱・昌輝)が長篠の合戦で戦死したため、真田家を継いだ。武田家滅亡後、織田、上杉、北条、徳川らが群雄割拠する大勢力の中を生き抜いた。特に二度にわたり徳川軍を打ち破った上田合戦は真田の武名を天下に轟かせた。

真田信繁(幸村)(さなだ のぶしげ)(ゆきむら)(1567~1615)

昌幸の次男。第二次上田合戦の後、昌幸とともに紀州・九度山へ流される。大坂夏の陣では赤備えの軍団を率いて父親譲りの智略を発揮し、徳川勢を苦しめた。
とりわけ、徳川家康の本陣を突き崩したことから、その活躍を「真田日本一の兵(さなだひのもといちのつわもの)」と称賛された。

年表・家系図

現代に続く真田氏

真田信之
(信幸)(さなだ のぶゆき)(1566~1658)

昌幸の嫡男で幸村の兄・信之は、真田の領土だった上野沼田城の城主。
第一次上田合戦後、徳川家康の養女で徳川四天王の一人、本多忠勝の娘・小松姫を娶る。第二次上田合戦の際、父・弟と袂を分かち、家康の東軍に属す。第二次上田合戦後は、昌幸、幸村の助命嘆願を行った信之に対して、家康は、二人の死罪を免じ、上田領も与えた。大坂の陣の後、信濃国松代藩に移封された。
その後、明治維新にいたる約250年もの間、真田家は存続する。

片倉守信
(真田大八)(かたくら もりのぶ)(さなだ だいはち)(1612~1670)

真田幸村(信繁)の次男。大坂夏の陣の折、伊達政宗の重臣・片倉重長に預けられ、姉達と共に片倉氏に育った。成人後は片倉久米之介守信を名乗った。一時真田姓を名乗るも幕府の追及を逃れるため、片倉姓に戻している。
守信の長男・辰信の時、再び真田姓に戻したが、幕府に遠慮し、本当の家系図は明治維新後まで秘密にされた。
仙台真田家には、幕末に洋式兵学者として活躍した真田喜平太(真田幸歓、さなだ ゆきしげ)がいる。

実は「幸村」ではない?名前の謎

真田幸村は幼名を弁丸、通称は「幸村」として知られているが、実はこの名は生前の資料には一切出てこない。現存する書状で、幸村とされる人物が署名した名は「信繁」である。江戸時代以降、真田家を題材とした講談などの作品のほとんどが「幸村」の名を使い、世に広く知れ渡ったため、この名が定着した。